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「ADHDではないか」自らを疑った私が感じる「発達障害」の側面

並んだ男女の白黒写真 生きづらさを抱えて
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いわゆるカミングアウトというものでありますが、私は昔から自分がADHD(注意欠如・多動症)ではないかと疑っています。

幼いころからいろんな面で生きづらさを感じていた私。どこか人と違うなあと感じる点もあり、よくいじめに遭ったり、うまく物事が運んでいるはずなのに面白くない、気が散って違和感ばかりが残ったり……とにかくモヤモヤした気分で毎日を過ごしていました。

そんな気持ちは成長の中で「人として当たり前の生き方なのかも」と受け止めるようになり、いつしか自分の意識の奥底へと沈んでしまいました。

ところが先日、その忘れていた記憶、感覚が自分の中にゆっくりと戻ってくる感覚を覚えました。それは映画『ノルマル17歳。-わたしたちはADHD-』と出会ったときのこと。

映画『ノルマル17歳。-わたしたちはADHD-』発達障害による生きづらさに向き合うための新たな視点を描いた物語
ADHDなど発達障害を抱え生きづらさを訴える人たちをどのように希望へと導いていくのか。【映画『ノルマル17歳。-わたしたちはADHD-』生きづらさの先にある希望をいかに見出すかを考えさせる物語】

今になって改めてあの過去の感覚を振り返ると、当時は気づきもしなかったさまざまな側面が見えてきたようにも感じられるのです。

今回はそんな私の「発達障害ではないか」と自らを疑った半生より、この症状でまだ見落とされがちな「生きづらさ」「生き方」というポイントを考えてみたいと思います。

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発達障害ADHDを知ったきっかけ

顔を覆って座り込む少年
いつも「生きづらい」と感じていたのは、とにかく気が散りやすく、イライラしている中ですっと肝心なことが頭から抜けてしまうという感覚にありました。

じっとして立っているというのも苦手ですが、ちょっとした外乱、誰かが立ち話をしたり、目の前を黙って横切ったりしていることですら過敏にうっとうしいと感じ気持ちを乱されることもしばしば。

そんな自分が子供の時分には目立つのでしょうか。遊び友達の集団の中でいじめられることもたまにあり、いつしか誰かと一緒に遊ぶということが苦手になっていました。

それから中学校に上がったころのことだったか、テレビのニュース番組で放送されていたトピックスの中でADHDという症状の発見に関するレポートが流れているのを見ました。

冬山を登る人の後ろ姿
「気をそらされやすい」「一つの作業に集中し続けるのが難しい」、さらに「ミスをしやすい」「物事を忘れやすい」そんなレポートだったのではないかと思いますが、「随分と自分に当てはまるなあ、ひょっとして自分もこれなのではないか?」と衝撃を受けた記憶があります。

それから何年も過ぎ、そんな記憶も薄れた今になって先述の映画作品に出会い、ADHDなど発達障害の診断ができる病院をインターネットで検索、合わせてオンラインにより傾向診断ができるサイトを探しました。

そして見つけた某サイトでその傾向診断を行ったところ、結果は「中ー重度の症状の可能性があり」というものでした。

自分なりにオンライン傾向診断の質問にはどちらかというと控えめに回答したつもりだったので、この結果で示す可能性はかなり高いのではないかと考えています。

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今、その真相を知ろうとしない理由

霧がたちこめた丘の上
発達障害という問題に関し今現在まで何も調べようとしなかったのは、まず「どう向き合えばいいのかがわからない」という点が挙げられます。

考えてみるとADHDというキーワードに出会って数十年、社会的にこのワードや性質というものが現代社会でどのように受け入れられているのかを、よく認識しないまま今現在を迎えたことを改めて感じています。

「障害」という言葉が付き、どう見ても「この症状は大きな問題だ」という認識があるものの、たとえば風邪などの症状のように病院に行くタイミングが明確ではないし、服用薬がそこでもらえて…などということも実際にはありません。

映画作品では二人の女子高生がADHDであるという診断を受けてからの話になりますが、果たしてそのタイミングはいつなのか?学校や会社の健康診断でそれを見てもらうというタイミングは残念ながらありませんでした。


また今になって思うことですが、もう一つの理由は母親にあります。

生まれて今でも本当に大切に育ててもらい、自分なりには母親の性格を受け継いだと感じているのですが、母にも同じように多動性を感じさせる行動がよく見られることがあります。

その意味では、たとえば医師の診断を受け明確に発達障害であることを診断されたときに、ひょっとしたら母親を傷つけてしまうのではないかということを恐れています。

「自分に悪いところがあった」「大事な息子に自分の悪い面を受け継がせてしまった」などという意識は、母には大きなショックになるかもしれません。

どこか心にモヤモヤとした気持ちを常に胸に抱えながらも、どうにかこうにか今の歳まで生きてきたこともあり「あえて傷を深くすることもなかろう」と、結果的にその意識に優先度を高くしないままここまで来てしまった、という次第でありました。

こんな自分に今思うこと

レンガ造りの通路
学生から社会人、一時会社員として働いた過去が自分にはありますが、実はその都度生きづらさを感じたことはそれほど変わっていません

どこか仕事に集中できず決定的なところでミスが出てしまったり、重要なポイントをすっかり忘れていたりする。

他人を目の前にして打ち合わせをしていても大事なポイントが抜けていることもしばしば。いつしか私は「あいつは抜けが多い」「ダメな奴だ」と後ろ指をさされているのではないかと、毎日をコンプレックスに押しつぶされながら生きていました。

ただ退社し今になって振り返ると「もっとひどいミスをしていた人もいたな」「そんな人に限って大きく開き直ったり、逆ギレして偉くなったり。あんな感じの方が、実は出世してたりしていたかも」と、意外に苦しい中で踏ん張っていた自分の頑張りに驚いたりします

古い町並みの路地
一方、私は通勤経路などで近道や自分の好きな経路を探すのが得意でした。

たとえば職場の同僚との帰宅時に「よくこんな道を見つけたな」「なんでこんな道を通るの?」と驚かれることもよくありました。

私からすれば「少しでも人通りが少なく、気分良く歩きたい」「お気に入りの店などが通りにあれば、ちょっとだけ気分良くなるかも」「何か少しでもワクワクすることがあれば」などと考え、多くの人が通る道から少しずつ自分だけのお気に入りの道を通るようにシフトしていったのです。

多くのに人は私を理解してもらえなかったかもしれませんが、些細なことがどうしても気になってしまうことが死活問題である自分の、独自のセンスではないかと。

残念ながら会社員時代はその性質を生かせる場に遭遇することはできず、息苦しさばかりを感じてしまったように思うのですが、今にしてみればこんな自分でも生きていける道があることを得られるヒントが、あちこちにあるのではないかという気もしています。

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この記事を書いた人
黒野 でみを

40歳で会社員からライターに転身、50歳で東京より実家の広島に戻ってきました。
幼い頃からさまざまなコンプレックスや生きづらさを抱えながら、自身の道を見つけるために「ライター」という生き方を選んで生きてきました。
誰かの生き方に小さな灯がともせるようなコンテンツが提供できれば幸いです。

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