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映画『ノルマル17歳。-わたしたちはADHD-』発達障害による生きづらさに向き合うための新たな視点を描いた物語

映画『ノルマル17歳。-わたしたちはADHD』 生きづらさを抱えて
映画『ノルマル17歳。-わたしたちはADHD』より引用
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発達障害の一つであるADHD(注意欠如・多動症)と診断された二人の少女の視線を通して、この運命に悩む人々が社会でいかに生きていくかを問う映画『ノルマル17歳。-わたしたちはADHD-』が公開されます。

ADHDという診断に悩み苦しみながら毎日を生きる二人の少女が、ある日偶然出会ったことで、それまで知り得ることのなかった生きるためのヒントにたどり着く姿を描いたこの物語。

「発達障害」という症状が近年その認識も広く定着しつつある中、この物語はその広がりの中で新たな視点を提起しているようでもあります。

今回はこの作品の紹介とともに、発達障害というキーワードの真意、生きづらさという課題への向き合い方などを改めて考えてみたいと思います。

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映画『ノルマル17歳。-わたしたちはADHD-』とは

映画『ノルマル17歳。-わたしたちはADHD-』概要

映画『ノルマル17歳。-わたしたちはADHD』より引用

ADHDと診断されその運命に悩みながらも、出会いをきっかけに力強く生きていく二人の女子高生の姿を描いた物語。

本作を手がけたのは『ギヤマンの刀』『自治の種まく人』などの北宗羽介。新人脚本家の神田凜とともに物語を紡ぎあげました。

主人公である二人の女子高生を務めたのは、鈴木心緒と西川茉莉という新人女優。二人は本作のオーディションで選ばれました。他にも眞鍋かをり、福澤朗、村野武範らが名を連ねています。

あらすじ


厳格な母の元、進学校に通う真面目な少女・絃(いと)。対照的に茶髪で派手なメイク、ルーズソックスと、「イケイケ女子高生」然とした性格の朱里(じゅり)。

全く性格の異なる二人でしたが、それぞれがADHDと診断され、物忘れなどで私生活のさまざまな場面で支障をきたしていることに悩んでいました。

ある朝、絃は重要なテストの日に目覚まし時計をかけ忘れて寝坊、そのショックのあまり彼女は登校できず、街をさまよっていました。

同じころ、登校しながらも居づらさで学校を出てきてしまった朱里。二人は偶然とある公園で顔を合わせ、絃を気に入った朱里は半ば強引に街に遊びにつれていきます。絃は自分がADHDであると堂々と明かしながら、堂々と生きている朱里に魅かれ、いつしか彼女と友だちになります。

ところがある日、絃が朱里と遊んだ帰りに偶然母と遭遇、彼女の姿より不快感を抱いた母から交際を禁じられて落ち込んでしまいます。

一方、朱里も家庭生活で荒れていました。物忘れが原因で毎日のように姉とケンカ、両親も朱里を厳しく責めたて、彼女は家庭内で孤立し引きこもってしまいます。そして絃とのメッセージのやり取りも止まり……。

「発達障害」という認識への課題提起

映画『ノルマル17歳。-わたしたちはADHD』より引用

発達障害、とりわけADHDなど「注意欠陥・多動性障害」という診断、特徴に関しての社会的な認識は、その名が社会的に認められ大きな広がりを見せています。

しかし一方でこの認識により該当する人々が救われているかといえば、その状況はまださまざまな課題に向き合う入り口に立ったばかりといえるのではないでしょうか。

物語ではADHDという診断を下された二人の少女が、日々の生活の中で思い悩みながら生きていく姿を描いています。

診断により彼女らが救われているかといえば、彼女らの周囲の人たちはその診断からどこか「こういう人間だ」という性質を決めつけられてしまっているようにも見えます。

映画『ノルマル17歳。-わたしたちはADHD』より引用

物語では、ADHDという診断を下された段階でその人は「こうしてはだめ」「このようにしなければならない」と、決まったガイドラインのような指導方針に無理やり押し込められているような光景が見えてきます。

この「決めつけ」により、二人は自身の考えと周囲からの抑圧とのギャップに苦しみ、生きづらいという思いをさらに深めていくわけでです。

その意味でこの物語は、発達障害という診断を下された次の段階としてその本人、及び周囲の人たちはどのようにその特徴に向き合い、日々を過ごしていくべきか、そのような課題に向けた新たな動きを提言しているようでもあります。

「障害」「欠如」という言葉の裏に隠れた「特徴」

映画『ノルマル17歳。-わたしたちはADHD』より引用

一方、この物語には発達障害という特徴自体の認識イメージについても言及しているように見えます。

この特徴の名にある「障害」「欠如」という言葉は、その診断を下された人の特質をあくまで「問題」という一つのイメージに押し込めてしまってしまっているように感じられます。

もちろんこの診断を下された人の特徴として、さまざまな社会生活で支障をきたす傾向があることは確かでもあります。

しかしこの特徴を「障害」「欠如」という定量的な指標、性質としてしまうことは、実際問題として困難ではないでしょうか。

映画『ノルマル17歳。-わたしたちはADHD』より引用

劇中に描かれる二人の少女は、同じ診断を下されながらも性格としては正反対、かつそれぞれに個性をもった一人の人間。

対して彼女らの家族や友人、学校の先生や同級生らは、彼女らがADHDという診断を下された段階でその性質を無いものとして扱ってしまっているように見えてきます。

おもしろいのは、彼女らがADHDであることを知らない人たちは彼女らを特別扱いせず普通に接しているということ。「昼間から街を出歩いて変だな」とは思うものの、一人の人間として見ているその人たちに彼女らは、どこか不安を感じていない様子も見て取れます。

物語のそれぞれのポイントからは、ADHDという診断が現代社会において、正しい認識として受け入れられているかを改めて考えさせられます。

その意味では発達障害という診断の意味、そして診断を下された人をどのように進むべき道に導いていくか、そんな課題を改めて提起しているようにも見えてくる物語であります。

映画『ノルマル17歳。-わたしたちはADHD-』は2024年4月5日より東京・アップリンク吉祥寺にて公開

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