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ロックバーという場所での経験、自分の知らない自分の内面に気づいた瞬間

生きづらさを抱えて
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普段の生活の中で、心に不安を抱え鬱々とした気持ちになることは誰にでもあるでしょう。

そんな状況の中で、意外にも「なぜ今、自分が不安なのか」といったことに気づけないことも多いのではないでしょうか?

原因もわからぬままに嫌な気分で時が過ぎていくことに対して、なにもできないことがどれほど辛いことか。

私もわりにそんな悶々とした気持ちになりがちな人間ではありますが、この春先に訪れたとある場所で、ふと自身の気づかない一面を垣間見る経験をしました。その経緯をここに記します。

それは、東京・新宿にある、とあるロックバーに訪れたときのことでした。

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最初に「ロックバー」とは

ロックバーとは文字通り「ロックを聴かせるバー」で、お酒などを大音量で流れるロックとともに楽しむ場というのがコンセプト。

「単に音楽が流れるバーなら、それは普通のバーじゃないの?」と思われる方もおられるかもしれません。しかしお客が聴きたい音楽をリクエストするというポイントがミソ、それこそがロックバーのロックバーたるゆえんなります。

このロックバーなる文化は、レコードやCDの売れ行きとともにロック音楽が最高潮に盛り上がった70~90年ごろまでは、都会ではよく見られたものでありました。

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自分の苛立ちの正体をロックバーで気づいた瞬間

その店では、ひょっとしたらほかの日にはもっとたくさんのお客も訪れているのかもしれません。しかし私がこの春に訪れたロックバーでお客は私一人だけでした。

それでも「一人だから気楽だ」と、ふらっとお店の扉を開け、飲み物を片手に、マスターから渡された紙切れに聴きたいと思った曲名を書いていきました。

お客は自分一人ですが、リクエストを受け取るマスターはちょっとコワモテの方でしたし(失礼!)、なんとなく気軽に話しかけられる雰囲気でもなかったので、ちょっと緊張しながらも「今聴きたい曲」を思い切って伝えていきました。

「夜は楽しむぜ!」と意気揚々として東京に訪れていた私ですが、滞在していた数日はなぜか悶々とした気持ちが続いており、気が付くとリクエスト曲もステッペン・ウルフの「ザ・プッシャー」、ハワード・ジョーンズの「ザ・プリズナー」といったロック・ナンバーになっていました。

前者は70年代の映画『イージー・ライダー』の挿入歌の一つで、かなり気だるい雰囲気のロック。後者に至っては80年代の洋楽ポップスですが、タイトルの意味「囚人」からして「自分がなにかに囚われている」ような印象をおぼえる少し暗い感じの曲ですので、「こんな曲をリクエストするなんて、自分はよっぽどおかしな気分になっているんじゃないか」と少し心配になりました。

しかしそこでふと気が付いたのが、どうも悶々とした気持ちの中に、その要因のようなものがうっすらと見えてくるような感覚でした。

ここ数年、実家の田舎でじっとしていた自分が上京するのは3年ぶりのことで、ちょうどコロナ禍も収まりつつある中、自分の仕事にも新しい糸口が見つかるかも、などとさまざまな期待を込めてそこにやってきました。

そして「久々に東京に来た」「来てやったぜ、ついでに懐かしい人にも逢った」「仕事の関係にも挨拶できた」と、とりあえずやろうと思っていたことはやったという結果に満足していたのでしょう。

しかし未だ残っていたコロナ禍の影響は、もろくも自分の期待を大きく崩してしまいました。さらに3年ぶりに会った東京の人たちには、「久しぶり!」と懐かしがってもらいながらも、どこか他人行儀なところが見え隠れして自分の不安をあおっていたように思います。

とりあえず「来た」という結果の満足の裏に、ちょこちょこと見えた不安。トータルで結果を「四捨五入」し万々歳と自分に言い聞かせていた自分は、この時切り捨てられた端数の中にあった怖さ、不安の要因に気づいた、というわけでした。

昼間に街中を歩いているとそんなことには気づきませんでした。あのときあのロックバーを訪れていなかったら、「あの気持ちはなんだったのだろう」という不安のまま帰郷し、何の要因もわからぬままさらに悶々とした日々を過ごしていたかもしれません。

見えなかったものが見えた要因

自分の隠れた一面に気が付いた瞬間。

それがなぜこのときだったのかと自分なりに考えていましたが、「この場所での体験だったから」という要因が最も強かったのではないかと思います。

つまり「音楽に浸る」という空間の存在、そしてマスターという存在があったことに起因しているようです。

このとき私が欲した音楽という存在はリラクゼーションの一つと捉えていました。しかし幼いころから親しんできた音楽という存在は、自分にとってさまざまな意味を持っていたものでした。

そしてこのとき、音楽は私を癒やすとともに、自身の内面を推し量る機能を果たしてくれたようでもあります。

そしてお店のマスターの存在は、自身の気持ちをフィルタリングするような立ち位置にあったのでしょう。

たとえば家で自分の好きな音楽を聴こうとすると、なにも考えずに気分に任せた曲を選んで流していたかもしれません。自分のリクエストを提示するのは「見てもらう」「曲をお店に流してもらう」「マスターにも(他のお客がいればその方にも)聴いてもらう」と、少し選曲にハードルが上がります。

ある意味「それは、本当に自分の気持ちに正直になっているか?」と問われているような感覚に変わっていました。つまり彼の存在は客観的に自分の意思を問うようなものでありました。

自分なりの「ロックバー」

ロックバーは、私が3年ほど前に実家の事情により東京から離れることになった前日にも訪れたことがありました。

そのときは、心の中にあった「東京でやり残したこと」へのもどかしさを嘆きつつも「自分にとって、まだ終わりじゃない」と自分に言い聞かせた気持ちとともに、最後にバーでかけてもらった曲が以下のものでした。

この記事では「音楽」「ロックバー」といったキーワードをクローズアップしていますが、誰しもが同じ店で同じ体験をしたからと、同様な気づきが生まれるとは思いません。

ただポイントとしては、やみくもに「なんで自分が不安なんだ」と自分に問うのではなく自分が真摯に向き合えるもの、それと合わせて客観的な視点で自分を見るものという両方が必要ではないかと考えます。

「今、自分が抱えている不安」の正体がわからず苛立つような日々を過ごしている人は一度、ここに記したロックバーという存在は、皆さんにとってはどのようなものになるのかを、考えてみてはいかがでしょうか。

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