障害を持つ者にとって、同居家族との関係性はとても大切。
ドラマ「かぞかぞ」でダウン症の草太がグループホームに入って自立への道を歩み出すシーンがありましたが、私のような重度身体障害者は家族との関係性に疲弊して、少し距離を置くという選択を迫られています。
筋疾患患者の井戸端会議
先日、私と同じ進行性筋疾患の同病仲間と、オンライン女子会をした。
歩くのが困難になってきたり、車椅子を使ったりと皆、物理的に移動が大変になってきたので実際に会いランチする機会はコロナ禍もあってここ最近、できていなかった。そこでオンラインの画面越しで再会。
コロナ感染で生死の境をさまよい2か月間ベッドの上だったとか、転倒して大腿骨骨折し3か月間入院したとか、壮絶なリハビリを経て歩行器で歩けるまでには回復出来たとか、普通ならばドン引きされるような話題満載の各自の近況報告が始まった。
これも筋疾患難病あるあるで、「わあ、大変だったんだね」と言いながらも、そのうち自分にも生じるかもしれないリアル感というか、まさに「自分ごと」として感じるのだった。
だから話を聞いても、驚くというよりも「どんな事があってそうなったのか」「どんなリハビリをしたのか」「今は何ができるようになったのか」「日常動作で新たに工夫していることは」など出来る限りの情報収集を試みようと質問攻めで、まるで事情聴取風になる。
もしもの自分のときのために、聞いておいて、心構えをしておかないといけないのだ。
「大変だったんだね~。そっかぁ。気をつけてね」だけで話は終わらないので、いかんせん、この女子会の場は、長時間に及ぶ。
それぞれの筋低下の進行度合いも違うので、各フェーズにおいてどんな対処をしているか、福祉制度をどのように利用しているかなどを聞くのも、とても役に立っている。
同居家族との関係
そんな中、話題に挙がったのは「同居家族との関係」。
病気の進行とともに、どうしても自分でできなくなることが増え、家族への負担が大きくなってくる。
料理・掃除・買い物ができなくなる、トイレ介助が必要になるなど、日常生活で家族の助けを得ないといけないのだが、「以前はできていた」記憶が家族の頭の中に残っており、「こっちは忙しいんだからそれぐらい自分でやったら」とか「怠けているのでは」などの反応に傷付く患者は多い。
筋疾患ではない人にはちょっと伝わりにくいのだが、「頑張れば出来る」というものではないのだ。もう歩く筋力が無いのに「こんなに短い距離、頑張って自分で歩けないの」と言われても絶対に歩けない。力をいくら振り絞っても歩けない。
もともとバック転が出来ない人に、いきなりバック転をやってと言っても絶対に出来ないのと同じようなものだと考えていただければお分かりだろうか。絶対に出来ないよね。まあ、筋疾患でなくてもバック転なんか出来る人は少ないが。
少し話がそれたが、家族が病気や症状への理解が追い付かないせいか、患者本人と家族との諍いが絶えないという話が、みんなから出ていた。
家族から言われる、つらい言葉
夫婦2人生活の友人は、夫から「君のせいでやる事がいっぱいで、もうイヤだ!」と怒られたり。ある友人は夫から「一人になりたい」と言われたり。
みんな、普段はとても仲の良いご夫婦だったり家族なのでとても意外だったが、夫に疲れがたまったりした時に暴言が出たりするらしい。
何十年も主婦としてやってきた実績があるがゆえに、ここになって妻が病気のために体が動かなくなってきて、夫たちも戸惑いながら「なんで自分が家事をしなくちゃいけないんだ」感が入っているのかもしれない。
ある友人はトイレの後、いつもなら自分で車椅子に移乗するのだが、その日は力がうまく入らず、どう頑張っても移乗できなかった。そのため自宅にいた夫に手伝ってほしいと声を掛けたところ、「そんなの自分でやれよ!」と拒否され、夫はそのまま仕事に出かけてしまったという。
聞いただけで恐ろしくなる事態。
友人は近くにあったスマホからヘルパーさんに電話をして助けを求めた。でもヘルパーさんや介護事業所側はすぐ向かえる人がおらず、5時間、彼女はずっとトイレに座りっぱなしだったのだとか。
なんていうのか、その直前に何か2人の間に喧嘩や仲違いの種があったのかもしれないし、朝の忙しい時間だったのかもしれない。だとしても、やって良いことと悪いことがあると思う。
「泣いてうるさいし、世話がイヤになったから」と乳飲み子や幼児を一人で家に残して、親が出て行ってしまう…のと同じことだよね。
この出来事を聞いた時、私のことではないのに、絶句と絶望感にさいなまれた。
相手を怒らせないために、介助をしてもらうために、機嫌を損ねないようにずっと気を遣って生きなければいけないのか。
両親と同居している友人は、親から「施設にでも入ってくれたらいいのに」と面と向かって言われるのだとか。今はまだそれほど介護度も高くなく在宅で仕事もしていて、福祉用具やヘルパーさんを活用することで親の負担を最小限に抑えているつもりだったが、こまごまとした手伝いがあると自由に遊びに出かけられないと嘆く親が「あなたのために私の人生を犠牲にしないといけないのか」と愚痴を言ってくるそうだ。
障害があるのは先天性であり、誰の落ち度でもないのに。あんなことを言われると、決して口にはするまいと封じ込めていた言葉「じゃあ産まなければよかったのに」が飛び出しそうになるんだとか。
多かれ少なかれ、私も似たような状況だった。
たぶん同じような思いをしている人には、分かりすぎると思う。
皆それぞれ、家事援助や身体介護でヘルパーさんをお願いしたり、公的支援も使ってはいるが、まだ24時間重度訪問介護制度は使っていないため大部分は家族による支援が必要となる。
そもそも、ヘルパーさんという他人が家に入ることに難色を示す夫もいたりして、ヘルパーさんを頼みたがらないくせに、家事の多くを自分が行うことには不満を口にするケースもある。
家族と居たいけど、家族のために離れる選択
お通夜のような雰囲気の暗すぎるそれぞれの告白。だけど絶望しているわけではなく、なんとかしていかないと。という思考をすぐ持てるのは、これまでも常に新たな問題が発生し続けてもその都度解決していくしかなかった進行性難病患者の性なのだろうか。
とはいえ、精神的にかなり疲弊しているメンバーもいて、これは福祉用具だとかで簡単に片づけられる問題でもないのだった。
「少し距離を置くくらいがちょうど良いんだろうねぇ」と誰かが口にして、他の者も「うん。そうだよね。わかる」
答えはもう既に、皆の頭の中にあった。
さすがに施設入所はまだ早すぎるし、デイサービスは重度や高齢者が多いところに通ってもまだ私たちには合いそうにないので、ショートステイやな、と。
これが認知症のある高齢者さんのこととして聞けば、「しかたないよね~」「家族にも休養が必要だし、デイサービスや施設入所してあげればいいのに」と簡単に思っていたのに、自分ごとになったとたん、そんな簡単に割り切れるものでもない自分自身にとても驚いていたりする。
実は、ショートステイに行ったからと言って、こちらは心身が休まるわけではなく、逆にしんどいのが目に見えているからだ。手すりや机の高さがわずか数cm、いや1cmの違いでも動作がたちまちできないギリギリのラインで生活している筋疾患の者にとって、使い慣れた自宅以外で生活することは、「普段の動作が何もできない」状態に置かれることでもある。
普段できていることをいちいち、誰かにお願いしなきゃいけないそのストレスといったら、半端ではない。
でも、一歩踏み出さないといけないのかもしれない、私たちは。
家族を守るために、家族と離れないといけないなんて。なんて悲しいのだろう。
つらいことだからこそ、笑い飛ばさないとやってられない
ドラマ「かぞかぞ」でダウン症の草太がグループホームに入ったのは、カフェで働く仲間たちと共同生活をしてみたいとか、社会の中で生活していくための自立の一歩だったりといわば「前向き」な理由だった(いや、そんな単純な話ではなく現実には様々な問題もあったことだとは思うが)。
いっぽう、家族関係に疲弊しつつある身体障害者の私たちは、疲れた家族を解放するという、どちらかといえば「後ろ向き」?うーん、なんていうのだろう、希望に満ちた理由ではないんだな。
でも、例えばショートステイに行くにしても、同じ地域に住むメンバー同士が「一緒に同じ時期に同じショートステイに行けば楽しいよね!」とか言い出して、まるでお泊り女子会のようなノリで空想したりしている。
そんな簡単に都合の良いショートは見つからないだろうけど、そうやって妄想しているだけで不安が和らいだり、むりやり自分たちを奮い立たせているような状況だ。