2月27日より3日間に亘り、広島・尾道にてイベント『尾道映画祭2026』が開催されました。
尾道は、古くは小津安二郎の『東京物語』など、数々の名作を生んだロケ地であり、日本を代表する故・大林宣彦監督の生まれ故郷でもあり、大林監督が生前「尾道三部作」「新尾道三部作」をはじめとした地に由来のある作品を輩出したことから「映画の街」としても知られています。
『尾道映画祭』は、そんな尾道で2017年より開催。2020年はコロナ禍の発生に伴い一時中断しましたが2021年に制限を設けながら開催し、今回で第9回の開催を迎えました。三日間のイベントで総入場者数は3,840人、尾道、映画というキーワードに対して多くの人が関心を持たれていることをうかがわせます。
今回はこの映画祭で特別招待された作品を、イベントに招待されたゲストによるトークショーのレポートとともに紹介したいと思います。紹介する映画は、全編長崎でのロケによる映画『夏の砂の上』。ゲストには作品を手掛けた玉田真也監督が登壇しました。
映画『夏の砂の上』とは
概要

配給:アスミック・エース (C)2025映画「夏の砂の上」製作委員会
『美しい夏キリシマ』の脚本などで知られる劇作家・演出家の松田正隆による同名戯曲を映像化した作品。愛を失った男と愛を見限った女、そして愛を知らない少女らが、それぞれの痛みに苦しみながらも向き合い、やがてわずかながらも希望を見出していく姿を追っていきます。
『あの日々の話』『そばかす』などの玉田真也監督が作品を手掛けました。
主人公・治をオダギリジョー、治の姪・優子を髙石あかり、治の妻・恵子を松たか子、優子の母で治の妹・阿佐子を満島ひかり、優子に好意を寄せる立山を高橋文哉、治が働いていた造船所の同僚を森山直太朗と光石研が演じた。
あらすじ
猛暑の中で水不足に悩まされる夏の長崎で、幼い息子を亡くした喪失感などもあいまって妻・恵子と不仲になり別居している男性・小浦治。彼は働いていた造船所が潰れても家に閉じこもり、新しい職すら探す気力を失っていました。
そんな治のところへ、妹の阿佐子が17歳の娘・優子を連れて訪れます。1人で博多の男に会い新たな事業への挑戦をするという阿佐子は、治に優子をしばらく預かってもらいたいと懇願します。
そして治と優子の突然の同居生活が始まり、優子は高校へ行かずアルバイトを始めます。一方で不器用ながらも懸命に父親代わりを務める治との暮らしになじんできた頃に、優子は治と恵子が言い争う現場に遭遇しますが…。
尾道映画祭2026 玉田真也監督 トークショー

作品は2月28日に上映され、公開後には作品を手掛けた玉田真也監督が登壇しました。なお、登壇予定であった主演のオダギリジョーは病気のため残念ながら不参加でしたが、玉田監督は主演で共同プロデューサーも務めたオダギリとのエピソードを振り返り、その話で会場に駆けつけた映画ファンは盛り上がりました。
広島に到着したのは、この登壇のわずか数時間前だったと振り返る玉田監督。尾道の街をまだ詳しく見る時間はなかったものの、映画の舞台となった長崎の町と非常に似ているという印象で「海と山に囲まれ、限られた平地に市役所などの主要な建物が集まり、住宅は山の斜面に沿って建てられている点から「坂の町」という印象。さらに、海の向こうに造船所が見える景色も共通していますね」と語り、ロケ地との共鳴を感じたことを伝えました。
高校時代に映画に魅了され、数多くの作品を見ていたという玉田監督。その頃俳優として第一線で活躍していた存在がオダギリだったと振り返り、今回のキャスティングにあたっては、特に映画『ゆれる』でオダギリが見せた、どこかうらぶれた佇まいを本作でも見たい、と思ったことがきっかけだったと語ります。

そして本作の出演を依頼したところ、すぐに快諾を得られたとのこと、その後シナハン(シナリオハンティング)を行う際に、オダギリ自らが「俺も行こうかな」とシナハンへの参加を申し出られ、同行する機会ができたといいます。
そこで玉田監督はオダギリと初対面を果たしたのちに、作品の方向性やキャスティングについて意見を交わす中で、共同プロデューサーを正式に依頼することになった経緯があったことを回想。この参加によって主要キャストの人選が具体化し、本作の規模としては豪華ともいえる布陣が実現したと述べ、感謝の思いを言葉にしました。
ちなみにヒロインを務めた高石あかりについてはオーディションで選出されたことを明かし、審査の段階でほぼ即決に近い形だったと振り返り「あの世代の中では飛び抜けたものを持っていると感じた」と当時の彼女の印象について語りました。
喪失を抱えた者たちが、わずかな足がかりを見つけるまで

本作が描き出すのは、単なる「再生」の物語というよりも、何かを失った人間が、なおも生き続けるためのわずかな足がかりを探し続ける姿です。
オダギリジョーが演じる主人公・小浦治は、まさに喪失を体現したような存在です。仕事も家庭もままならず、やさぐれた生活の中で、行き場のない怒りを周囲にぶつけてしまう。しかし、その荒々しさは単なる粗暴さではなく、どこか「誰かに気づいてほしい」という無言の叫びのようにも映ります。観ているうちに、その不器用な振る舞いが、助けを求めるサインであることが伝わってきます。
そんな治を見つめるのが、高石あかり演じる川上優子。彼女もまた、ほぼ育児放棄に近い環境で育ち、すさんだ青春を送ってきた過去を抱えています。決して恵まれた立場ではない二人ですが、優子は治の荒れた人生の奥に、自身と通じる何かを見出したかのように、新たな視線を向け始めます。それは同情とも恋情とも言い切れない、傷を抱えた者同士の静かな共鳴のように映ります。
物語が絶望の淵へと差しかかったとき、印象的に降り注ぐ「雨」が、彼らの転機を呼び起こす「奇跡」として現れます。長崎といえば、しばしば内山田洋とクール・ファイブの楽曲「長崎は今日も雨だった」のイメージが先行する一方、実際には全国的に見ても水不足傾向が多い土地とされています。だからこそ、本作における雨が示した「奇跡」は象徴的です。

本作では劇的な「奇跡」が起きるわけではありません。しかし、人が立ち上がる契機とは、案外こうした静かな出来事なのかもしれないと感じさせます。どれほど沈み込んだ人生であっても、何かひとつを足がかりに、人は前へ進もうとする。その可能性を、控えめながらも確かに提示しています。
終盤で治と妻が迎える別れの場面は、激しい衝突のまま幕を閉じるようにも見えます。一見すれば救いのない決裂ですが、治が発する思いやりの感じられない言葉には、別の読み取り方も残されています。それは歪な形をしながらも、「もう自分に縛られなくていい」という優しさとも受け取れるものです。互いに傷つけ合うしかなかった関係の中にも、確かに思いやりが潜んでいたのではないか。そう考えたとき、この場面は単なる悲惨さだけでは終わらない余韻を帯びます。
さらに印象的なのが、ラストで治が左手の三本の指を失った後に口にする「親指と小指があればいい」という言葉です。極限まで削ぎ落とされた状態でも、なお残るものがあるという宣言のようにも響きます。親指と小指は、何かをつかみ、そして誰かと指を結ぶための指でもあります。彼が辿ってきた出会いと別れ、その積み重ねを思い返すと、この台詞は単なる強がりではなく、人生を引き受ける覚悟の表れとして深い余韻を残します。
ときおり映し出される錆びた造船所の風景もまた、物語と強く結びついています。かつて栄え、やがて衰退していく巨大な構造物は、登場人物たちの行き場のない運命と重なります。しかし同時にそれは町の景観に溶け込み、独特の美しさをたたえています。朽ちゆくものの中にも、確かに宿る愛おしさがある。その視線こそが、本作全体を貫くまなざしなのではないでしょうか。
本作は派手な展開や劇的な救済が用意されているわけではありませんが、それでも失われたものの重みを真正面から受け止めながら、人が再び立ち上がるまでのわずかな揺らぎを丁寧に描き出しています。その静かな強さが、観る者の心にじわりと残り続ける作品です。
