聴覚障害を持つ陶芸家の日常を通し、「他者と理解し合うこと」の困難さと美しさを浮き彫りにした珠玉のヒューマンドラマ『幸せの、忘れもの。』。
ベルリン国際映画祭で二冠に輝いた本作で注目すべきは、手話で深く結ばれていたはずの夫との関係にある「幸せな出来事」を境に生じる静かな綻び。監督の妹であり、ろう者であるミリアム・ガルロが主演を務めることで、単なる物語を超えて聴者社会で生きる彼女たちのリアルな息遣いをスクリーンに描きます。
「聞こえる世界」と「聞こえない世界」の間にある「目に見えない溝」その孤独の果てに彼女が見つけた、本当の幸せとは。
観る者の心の深層に優しく、そして鋭く問いかける本作の魅力を紐解いていきます。
映画『幸せの、忘れもの。』とは
作品概要

(C)2025. Distinto Films SLU, Nexus Creafilms SL, A Contracorriente Films SL, Diverso Films AIE
聴こえない世界に生きる女性と、その家族の物語を出産、子育てという大きなイベントを通して繊細に描いた物語。
劇作家・社会学者としても活動するスペインのエバ・リベルタ監督が、2021年に手がけた短編映画「Sorda」をもとに作り上げました。
主演を務めたのは、リベルタ監督の実妹でろう者の俳優であるミリアム・ガルロ。本作は2025年・第75回ベルリン国際映画祭にてパノラマ部門の観客賞とアート・シネマ賞、第28回スペインマラガ映画祭にて「金のビスナガ(最優秀作品賞)」および観客賞・主演女優賞・主演男優賞などを受賞、世界的にも高い評価を得ました。
製作年:2025年(スペイン映画)
原題:Deaf
監督・脚本:エバ・リベルタ
出演:ミリアム・ガルロ、アルバーロ・セルバンテス、エレナ・イルレタ、ホアキン・ノタリオほか
配給:スターキャットアルバトロス・フィルム
あらすじ

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手話というかけがえのない言葉で心を通わせ、慎ましくも幸せな毎日を送るろう者のアンヘラと、彼女に優しく寄り添う夫エクトル。
また陶芸工房で働くアンヘラは、気を許せる工房の仲間たちに囲まれながら、平穏な日々を過ごしていました。しかし、ある日に訪れた“幸せな出来事”をきっかけに、彼女の日常には不穏な影が立ち込めてゆきます。
疎外感に揺れながらも、「聴こえない世界」とその外側にある“本当の幸せ”をつかまえるべくもがくアンヘラでしたが……。
ろう者の子育てが映し出す“現実”

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本作のストーリーは、ろう者の女性が母になるまで、そして母になってから直面する現実を描いた物語。
社会的テーマを扱いながら決して声高なメッセージ映画とした印象はなく、むしろ本作が見つめているのは「ごく日常的な生活の中で積み重なっていく不安や戸惑い」そしてその先にある「確かな幸福」であるといえます。
本作は、同監督が手がけた短編作品をもとに長編化されたもので、主演を務めるミリアム・ガルロの実体験や、同じ立場にあるろう者たちへの取材を通して物語が形作られたといいます。
フィクションでありながら全編に流れる生々しい現実味は、そうした背景によって支えられているのでしょう。
主人公アンヘラが抱える不安は、決して特別なものではありません。子どもを授かったとき、多くの親が感じる「無事に生まれてきてくれるだろうか」「ちゃんと育てていけるだろうか」という戸惑い。その感情は、誰にとっても身近なものです。

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ただアンヘラの場合、そこに“聴こえない親として子どもを育てる現実”が重なります。泣き声に気づけるのか。周囲と円滑に連携できるのか。医療や教育の場面で取り残されないか。本人の努力だけでは解決しきれない問題が、生活の細部にまで入り込んできます。
本作が優れているのは、そうした困難を大げさなドラマとしてではなく日常の連続として描いている点にあります。
何か劇的な事件が起きるわけではありません。しかし小さなすれ違い、わずかな不便、説明しづらい孤立感が積み重なり、観る側にも重責として伝わってきます。
そしてその姿は、ろう者だけの物語にはとどまりません。子育てに不安を抱え、理想と現実の落差に戸惑い、自分はちゃんと親になれているのかと悩む気持ちは、多くの人に共通するものです。
本作は、ろう者の母親という立場を通して、親になることそのものの普遍的な揺らぎを描いています。
社会の基準を問い、幸せの形を見つめ直す映画

(C)2025. Distinto Films SLU, Nexus Creafilms SL, A Contracorriente Films SL, Diverso Films AIE
本作のさらなる深さは、単なる育児ドラマに終わらず「誰の感覚がこの社会の基準になっているのか」を問いかけてくる点にもあります。
劇中では、アンヘラと“音のある世界”との距離感が印象的に描かれます。補聴器を通じて得られる聴覚は、一般には便利さや回復として捉えられがちです。
しかし本作は、それが必ずしも本人にとって快適で自然なものとは限らないことを示します。聴こえることが絶対的な正解なのか。音のある世界に合わせることだけが幸せなのか。そんな問いが、観客の中に向けられます。
私たちは無意識のうちに“多数派の感覚”を普通だと考えがちです。しかし本作は、普通とは固定されたものではなく、社会の側が決めてきた基準に過ぎないのではないかと示唆します。
共生とは、少数派を多数派へ近づけることではなく、それぞれのあり方が尊重されることなのだと気づかされます。

(C)2025. Distinto Films SLU, Nexus Creafilms SL, A Contracorriente Films SL, Diverso Films AIE
そのうえで胸を打つのは、本作が決して苦しみだけを描いていないことです。
子どもを愛しているからこそ悩み、守りたいからこそ疲れ、幸せを願うからこそ傷つく。その感情の裏返しとして、苦労がある。邦題で表現された『幸せの、忘れもの。』は実に示唆的です。
日々の忙しさや問題に追われるうち、いつの間にか見失ってしまうもの。しかし最後に本作が映し出す穏やかな時間には言葉で説明しきれない、しかし確かな幸福が宿っています。
それは派手な達成でも感動的な奇跡でもなく、誰かと共に生きることそのものの温かさといえるでしょう。
本作はろう者の子育てを描いた作品であると同時に、私たちが当然と思ってきた価値観を見つめ直させ、その先で本当に大切な幸せとは何かを、静かに思い起こさせてくれる一本です。
