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『帝王』の顔の裏に隠れた真の姿ー音楽を通じて人を想った優しき「狂人」

生きづらさを抱えて
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この記事を書いている約1カ月ほど前、ヘヴィ・メタル界のビッグネームの一人であったオジー・オズボーンが亡くなりました。

そのときに私が感じたのは「ああ、いよいよか…」という気持ち。かつては「短命」などといわれたロック―アーティストたちの中で、享年76歳。私が言える話ではないかもしれませんが、生き抜いてくれたなという感じでした。

一方で数々の「音楽専門ではない」メディアが、彼の死を報じていたこと。毎日「トランプ関税」の話か、「大谷翔平が何本ホームランを打ったか」という話ばかりの毎日でありますが(笑)、その中でふと彼の訃報が、それもテレビで流れてきたのは、私にとって大きな驚きでした。

そしてその後数日間、彼をめぐるさまざまな思いが、頭の中をめぐってくることになったのです。

今回はその思いの中で、私が改めて感じた彼の一面を記しておきたいと思います。

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報道に対して感じた違和感

炎のイメージ

彼の名が久々に、朝7時ころのテレビニュースで、しかも日本のニュース番組で流れたことに、大きな驚きを隠せませんでした。

その報道のほとんどは「『ヘヴィ・メタルの帝王』オジー・オズボーンさんが死去」という感じのタイトル。どの番組もこの『ヘヴィ・メタルの帝王』という冠が外せないところに、もう違和感があり過ぎて気持ち悪い。

『紀〇のドンフ〇ン』みたいに、ニュース自体がどんなものかではなく「記事を見せたい、注目を集めたい」だけなのだな、とかなりいたたまれない気持ちに。

そもそも「『ヘヴィ・メタルの帝王』って何なんだ?」という感じですが、その質問にテレビは「当人の名前だけを記しても、オズボーンさんのことを知らない人もいるだろうから」などと答えるのでしょう。

でもそもそも「ヘヴィ・メタル」というものを彼らが、そして世間がどれだけ知っているのか?そこまで言うのなら、オズボーンの死後しばらく「改めてこんなもの、みんなで”ヘヴィ・メタル”を知ろう!」みたいな特集をやってみろ!と思いましたが、そんな番組が報じられることもなく、今はまるで何事もなかったかのよう。

やはりこのニュースは一過性、どころかまばたきをする一瞬のもの…結果的にそのトピックスを取り上げた意味には疑問と不満だけが残っていました。

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ヘヴィ・メタルという音楽、そしてオジー・オズボーンという人を世はどう見たか

ギターを弾く人

ヘヴィ・メタルという音楽はそれこそ誕生から常にアンダー・グラウンドな存在で、PMRCからの批判はかなり大きく取り上げられ、ファンやアーティストたちから反発を受けていました。

日本では1985年の人気バラエティー『天才・たけしの元気が出るテレビ!!』で、某メタルバンドが笑いものにされ、ヘヴィ・メタルというジャンルを揶揄する「ヘビメタ」なる言葉が日本を席巻する一方で、ヘヴィ・メタルファンから大きな反感を浴びていました。

オズボーンはブラック・サバス時代も含め、PMRCからかなり叩かれながらも反発していたアーティストの一人でした。ファンからは大きく支持されましたが、一方で世には批難する人も多くいました。

その意味で80年代当時、新聞、テレビなどといった大きなメディアはヘヴィ・メタルという音楽ジャンルを舐めてかかっていたと思っていましたが、オズボーンの死をこんな風に取り上げたことに対して「やはり今でもそう思っているのか」と、ヘヴィ・メタルという音楽に深い思いを持っている自分としては、かなりやりきれない気持ちになりました。

私が彼のサウンドに触れた80年代の、世間が醸していたヘヴィ・メタルを見るあの目線は、時を経る毎に何かが変わったようで、実は何も変わってなかったように思えました。

「『帝王』の素顔」が垣間見られた時

花を手に取る女性の手

オズボーンの音楽キャリアとしては大きなものであるブラック・サバスを1978年に脱退、以後ソロに転向してからはドラッグやアルコールに溺れていたといわれています。その意味では、いわゆる「ロックスターの豪傑伝説」的な言われ方が強い彼。

世から反発を受けたオズボーンのイメージは、やはり「ライブ中に生きたコウモリの頭を噛み千切り、病院送りに」などといった数々の奇行でしょう。

しかし1988年に公開されたドキュメンタリー映画『The Decline Of Western Civilization Part II: The Metal Years』ではオズボーンへのインタビューシーンがあります。

ここではその最悪の時代における自身の過去を振り返るとともに、やはり「普通の仕事につくことができなかった」という、自身の弱さを認めるような言動が記録されています。

また言葉を発する彼の姿は、ごく普通の生活の姿を見せているようで、その奥底にアルコールに溺れた結果にまとわりついた傷跡のようなものが垣間見られます。その弱々しい姿からは「帝王」などといった強さは、実は彼にはなかったように見えるのです。

「闇」の裏に見える優しさ

彼の名義で発表された1983年のアルバム『Bark at the Moon(邦題:月に吠える)』は、今思えば一つの大きな転換を感じさせるものでした。

当時擁していたギタリストのランディ・ローズは「新時代のギター・ヒーロー」の呼び名も高いプレーヤーでしたが、このアルバムが発表される1年前の1982年3月、不運の飛行機事故で命を落としてしまいます。

一方で1982年には、以後生涯の伴侶となった妻シャロン・オズボーンと結婚。その人生の転換期を迎えたのちに、『Bark at the Moon』はリリースされました。

アルバムジャケットは、まるでこれまでの奇行によるイメージを引きずるような、「狼男」になったオジーの姿。さらに新たに迎えたギタリスト、ジェイク・E・リーの激しく刺々しいギター・リフが激しく鳴り響くイメージは、ファースト・インプレッションとしては「帝王」のまま。

ところがこのアルバムのB面2曲目にある「So Tired」という曲には、ハッとするイメージが現れます。

I am so tired
And I just can’t wait around for you
I am so tired
And I always thought we’d see it through

とても疲れたよ
君を待つことはできない
とても疲れたよ
いつも「最後までやり遂げられる」と思っていたんだ

ヘヴィ・メタル然としたほかの曲に比べ、この曲はオーケストラのストリングスすら流れる優しいバラード曲。アルバム中ではかなりの異色曲ともいえるナンバーでしたが、敢えてこの曲で強調していた「待っていた」「待ち焦がれながら、諦めることを宣言した」ものは何だったのか。ある意味、このタイミングで何かと決別するような意思を示しているようにも感じました。

そのメッセージをこのようなサウンドで表現したところに、彼の心にあった柔らかなイメージが感じ取れるでしょう。

ちなみに冒頭曲でアルバムのタイトル・ナンバーである『Bark at the Moon』は、どうもアルバム・ジャケットやMVの印象で「狂人」「帝王」のイメージが拭いきれないのは正直なところです。

しかしその詞の表現は、どちらかというとモンスターのイメージとしてとらえる自身の姿を「社会に溶け込めない者」として投影し、彼らが抱える怒りや悲しみ、そしてそれに苦しみながらも立ち上がろうとする強い思いを表現しているようにとらえることもできます。

このアルバムの次にリリースされた『The Ultimate Sin(邦題:罪と罰)』はどこか前作の流れを汲み、自身を何かのアンチテーゼとして人々に訴えるようなメッセージ性が感じられる作品となっていました。

そこに「帝王」「奇人」「狂人」というイメージは、どうも不釣り合いな感じ。どこか弱者のための思いやりすら感じられるような気がするのです。

後妻との結婚当時はまだアルコールなどの影響が続き、その破天荒な生活ぶりは変わらなかったものの、その後リハビリ施設に入所、以後は夫婦、家族と仲睦まじい生活を送っていたことは、さまざまなメディアから伝えられています。

【追悼】オジー・オズボーン、会ったことも話したこともない異国のあなたへ|安藤さやか
タイトル画像出典: 「オジー・オズボーンって、何なんだろう」。ときどきふとそう考える。 ぶっちゃけ、歌はそこまで上手くない歌手だった。ヘタウマって言葉もあるけれど、音源はともかく、若い頃からライブはなかなか。ライブDVDがリリースされたとき...

こんな素敵な思いを綴ったファンの方がおられました。ライブにおける彼のイメージは「笑顔」だったと。思い溢れる文末を読んで、私の旨には非常に切ない思いがこみ上げてきました。やっぱり、こんな風に人の想いを引き寄せる力が彼にはあったんだと、改めて感じていました。

「心優しき『狂人』」。初めて彼のサウンドに触れた時からもう何年過ぎたか、いまさらながら私が彼に抱いたイメージでした。

そして彼の存在との出会いが、私の人生を豊かにしてくれるヒントを与えてくれた。その感謝の想いとともに彼の冥福を祈りたい、今はただそう思い続けるだけです。

 

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